北アメリカ部分の公開 1982年〜
1975年(昭和50年)3月、金沢自然公園基本構想がまとまり、金沢動物園の建設が始まりました。すでに横浜市には野毛山動物園がありましたが、市の中心部に位置し土地の制約があり、大型動物を多く飼育することが困難でした。そこで、郊外に広い土地を持った動物園を建設することになったのです。1982年(昭和57年)2月に北アメリカ部分が完成し、3月17日に野毛山動物園の分園として部分開園しました。プロングホーン3頭、シロイワヤギ3頭、オオツノヒツジ4頭でのスタートでした。
エピソード
飼育員は動物の入園のための準備に大忙しでした。展示場は、動物と人との間に檻がない「無柵放養式」という展示方法を取り入れました。檻がない代わりにモートという大きな堀で仕切られているのです。準備の一つに、この展示方法に慣れない動物がモートに転落するのを防ぐため、展示場の周りに網を張る作業がありました。その作業に使った網は、近くの漁協からの頂きものでした。また、オオツノヒツジを展示できるようになったのはいいのですが、夕方になってもなかなか寝室に帰ってきません。飼育員は展示場に入ってオオツノヒツジを追い駆け、寝室に入れるのが日課となりました。オオツノヒツジはただ追い駆け回されるだけではなく、時々自慢の角を振りかざし突進して来ます。そのため、しばらくは気の抜けない日々が続きました。
南アメリカ部分の公開 1984年〜
1984年(昭和59年)南アメリカ部分が完成しました。はじめはビクーナ、コモンレア、ブラジルバク、カモハクチョウの4種が飼育展示されました。このうちビクーナ以外は当初計画と違う動物種でした。収集しようと計画していた動物の多くは希少種で、なかなか計画通りに収集できなかったのです。コモンレアはダーウィンレアの、ブラジルバクはベアードバクの、そしてカモハクチョウはクロエリハクチョウの代わりとして入園しました。もちろん、その後無事計画していた種に切り替えられました。金沢動物園の黎明期はこうした代役たちに支えられたのです。
エピソード
ブラジルバクからのバトンタッチを受け入園したベアードバクのオスは、咬み癖のあるバクでした。鍵穴から口を出して、飼育員に噛みつこうとします。この噛み付き癖は激しく、当時の飼育員の間ではかなり有名でした。年老いて体力もなくなってきた頃にようやく咬み癖がなくなり、飼育員は安心して同じ部屋の中に入れるようになりました。
ユーラシア区の公開 1985年〜
1985年(昭和60年)、ユーラシア区が完成しました。ローランドアノア、ガウル、インドゾウ、インドサイ、スーチョワンバーラル、タンチョウはこの年に入園しました。ニホンカモシカとカンスーアカシカは、事前に野毛山動物園から入園していました(昭和57年と昭和59年)。
エピソード
ユーラシア区といえば、やはり人気者のゾウでしょう。インドゾウのオス、メスそれぞれ1頭が姉妹都市提携20周年のお祝いとしてインド・ボンベイ市から贈られました。この2頭はインド北方の寺院で飼育されていた若いゾウでした。インドではオスは『ビジャイ』、メスは『ラクシュミー』と名前が付けられていました。名前の意味は『ビジャイ』は勝利、『ラクシュミー』は女神ということです。インドでは動物のオス・メスに一般的につけられる名前だそうです。日本でいうと太郎と花子という感じになるのでしょうか…。「動物園の人気者であるゾウは、やはり横浜市民に親しまれる名前がいいだろう」ということで、愛称を募集し、日本での名前を付けることになりました。たくさんの応募の中から、オスは『ボン』、メスは『ヨーコ』という名前が選ばれました。『ボン』はボンベイ市の頭2文字を、『ヨーコ』は横浜の頭2文字を取ったものです。現在ではボンベイはムンバイと呼ぶことからすると、時代が違えば、オスは『ムン』となっていたかも知れません。
オセアニア区の公開 1986年〜
1986年(昭和61年)オセアニア区が完成しました。この年の10月、オーストラリア・クイーンズランド州からクイーンズランドコアラのオス2頭が寄贈され入園しました。その他、オーストラリアヒクイドリ、ヒガシオオカンガルー、キタオグロワラビーが入園しました。オーストラリアウォンバットは翌年、オーストラリア・メルボルン市より寄贈され入園、また、アオバネワライカワセミは翌々年に入園しました。
エピソード
当時、コアラはVIP待遇で、成田空港から専用のヘリコプターをチャーターして動物園まで運ばれて来ました。臨時のヘリポートは、現在の「ののはな館」の場所(当時はまだ更地の状態)でした。当初、日本でのコアラの飼育は確立されておらず、給餌するユーカリの種類や量を決めるのも一苦労でした。コアラが来園してから約1ヶ月間、飼育員が泊り込み、24時間コアラの状態を観察し記録していました。11月に一般公開してからは、コアラを見るためにたくさんの来園者が集まりました。臨時の駐車場として、当時まだ更地の状態のアフリカ区が使われました。翌年のゴールデンウィークにはその駐車場も満車の状態で、園外にまで車が列を作りました。あまりの混雑振りに、飼育員も車の整理にあたりました。
アフリカ区の公開 1988年〜
1988年(昭和63年)4月、野毛山動物園から独立し、横浜市立金沢動物園となりました。また、5月にはアフリカ区が完成しました。翌年3月、アミメキリンの公開によりアフリカ区が全面公開となり、北アメリカ部分の開園以来、7年の歳月を要して全面完成しました。
エピソード
他の区の動物舎では、動物脱出防止のために空堀(モート)がほられていますが、アフリカ区ではすべて水を張った堀(水モート)になっています。まれに、アフリカ区の動物達がこの水モートに落ちてしまう(入ってしまうかな…)ことがあります。どうして入ってしまうのか理由は分かりません。キリンの場合、バシャバシャとモートの中を右に左に歩き回ります。なれない水モートの感触にキリン自身も驚いている様子でした。大きいものになると身長が5mを超えるという大きな体の持ち主ですから、飼育員総出で展示場へ誘導しました。また、ボンゴに至っては、水モートを飛び越えてお隣のノロバやオリックスの展示場に侵入したことがあります。動物舎を建設するときには、住人となる動物の能力(ジャンプ力など)を調査して展示場から脱出しないように設計するのですが、本物の動物達はその設計を超える能力を持ち合わせていることがあります。飼育員は時にはこの野生の能力に感動し、そして時には悩まされるのです。